人生は友達と想いでヤ

 突然電話が鳴った。
小走りで病院へ行く。
相談室へ通されていきなり言われた。
「余命3ヶ月!」
脳天をハンマーで殴られた衝撃が走った。
この日から、すべてのことが止まり、命をかけた戦いがはじまった。
一寸先は闇! 神も仏もあるものか? 世の中、何がおきても不思議ではない。 ギターの音色が聞こえる。父親譲りのサウンド、最初に弾いたのは、スタンドバイミー。
  今日も、受験勉強が終わって、自分の時間を楽しんでいる。
京大受験に失敗して、今は、予備校に通っている。
東大、京大の合格率が高い進学校を出たが、不況のせいもあって、史上まれに見る競争率に破れた。
趣味は、音楽、映画、お笑い番組やK1などの格闘技。やさしさの中にも男らしさを秘めた、ナイスガイ。
身長177センチ、体重55キロ、スマートでハンサムボーイ。
地元の女子高では、人気者の有名人。青春ど真ん中。
その名は「善幸」まだ十九歳。 うだるような暑さの中、原爆のニュースが流れる時節がきた。
そうだ、日本のお盆休みだ。東京の大学に通っている長男一幸も帰省している。
久しぶりに、実家に従兄弟の子供たちが集まって、おばあちゃんに元気な姿を見せている。
おばあちゃんは、孫たちに自分の手料理を食べさすのが大の楽しみ。
はっきりいって、さほどおいしくはないが、みんなおいしい、おいしいといって食べてくれるから、
おばあちゃんも張り切って、つい作りすぎてしまう。
おなかいっぱいになった後は、みんなで記念写真。
善幸は、笑顔でおばあちゃんの横で写っている。
事件は、それから数日後に起きた!風邪引きがなかなか治らなかった善幸は、数日前から風邪薬を飲んでいたが、一向に良くなる気配がなかった。

「風邪薬ばかり飲んでンと、病院に一度行きなさい」
と、父親が諭すと、
「うん」と渋々うなずくも毎日の図書館通いと、夜遅くまでの受験勉強でそんな余裕は、まったくなかった。
いつも通りすぐ治るだろうと、気軽に考えていた。
そんな夏の朝、突然悲鳴のような長男の声がこだました。
「なんやその顔! 浮腫んでるやンケッ・・・お母さーん」
驚いた母親も、心の中でおかしいと胸騒ぎを感じながら、
「早く、医者に行きなさいッ」と、せきたてた。
当人も鏡を見て驚いている。顔を撫でたり首筋をさすったりしながら、しきりに鏡を覗いている。
なんでだろうと言う、チョット意外な心配と不安が交差したような顔つきだった。
すぐに保険証をもって個人病院へ行って帰ってきた善幸は、沈痛な表情で言った。
「C大学付属病院の紹介状を書いてもろうた、大きい病院で検査せぇやて」
「エッ、紹介状!」と、父親は、視線をテレビから息子へと切り替えた。
いったい何の病気なのか? ただの風邪引きではないのか? 不安が一気に押し寄せてきた。
まさかこれから襲ってくる運命の逆流が、我が子とわが身に起きようとは、誰か知ろうはずもなかった。
    数日してまた浮腫んだ。予約日外だったが、あわてて大学病院を訪ねる。
「どうあった?」と父親が聞いた。
「すぐ入院しろって」
「エッ! どれくらい?」
「二ヶ月!」
  ただの風邪ではなさそうだ。いったい何がどうしたのだろう、どうして二ヶ月も入院しなければならないのか、不安と恐怖が脳裏を横切る。
なぜなら善幸は、病気らしい病気はしたことがない。どちらかというと健康なほうだ。
食欲もたっぷりあり受験生にありがちな青白い顔をしたひ弱な感じなど微塵もない。
バスケットボールや野球などスポーツもとても得意で、毎朝腹筋もかかさない。
入院が決まり六人部屋に入った。連日の無用と思えるほどの検査に次ぐ検査。
それだけでも患者に不安を与えてしまいそうになるほどの検査が続いていた。
そして、ある夜電話が鳴った。
「もしもし、僕、一幸、お母さんが泣いてるネン! すぐ来てッ」
「どうして?」
「よう分れへン」
「よっしゃ、すぐ行く」
  父親は、すぐに走って出かけた。
病院は自宅の近所だ。
長男一幸のあとをついてナースステーションの前まで来たとき、若い二人の先生(医師)が現れた。
ふと、お盆休みでベテランの先生はいないのか、と思うぐらいに若い先生だった。
案内されるままについていくが、だんだん緊張と不安が膨れ上がり・・・ただ事ではない・・・まさか?
X線写真を指しながら先輩格の若い先生が口を開いた。
「お宅のお子さんは・・・余命あと三ヶ月! です」
「エッ! 今、何と言うたッ?」
心臓の鼓動が急に激しくなって、飛び出しそうなくらい衝撃が襲った。
「ど、どう言うことですか?」と、興奮してどもりがちになっていた。
身体も震えている。
冗談を言うような場所ではない。
しかし、先生はまだ若い、誤診では?
「何かの間違いと違いますか? あの子は病気なんか殆どしたことないんですよ」
先輩格の先生が、X線写真をガラス棒で指しながら、
「縦隔に悪性の腫瘍ができています。そして、肺にも転移しています。
このままにしておいたら三ヶ月しか持たない、治療しても六ヶ月です」
と、本でも読むように言われた。
全身が緊張して硬直した。
目が点になり、耳がうーんと鳴った。
「あのう、治療しても治らないって、どう言う意味ですか?」
二人の若い先生は下を向いている。
追いかけるように父親は、
「放射線は? 手術は?」と、いづれも首を横に振られてしまった。
益々興奮が抑えられなくなった。そして、声を荒げていった。
「なにかッ、あるやろッー」と、極度の興奮状態に陥った。
  横では、母親が下を向いて泣いている。長男も呆然としている。
父親は意識をしっかり持って、もう一度訊ねた。
「よく理解できないんですが? ちゃんと説明してくださいますか?」と、精一杯感情を抑えて言った。
また、ガラス棒で胸のX線写真を指しながら、
「ここに、縦隔があって、そこに悪性の腫瘍が出来ています。
そして、肺のここと、ここに転移しているものと思われます」
横隔膜なら知っているが縦隔は初めて聞いた。
それに、腫瘍とは?
「ガンってことですか?」と、恐る恐る聞いてみた。
「はい」と、はっきり返事が返ってきた。
  嗚呼、なんと言うことだろう、我が身内には、ガンになったものなど一人もいない、やっぱりおかしい。
それに先生が若すぎる。まるでインターンではないか、誤診だ誤診だと己に言い聞かせた。
「X線の埃がついているのじゃないですか? ちゃんと調べたんですか?」と、半ばやけくそぎみにモノを言った。
「マーカーの数値も高いですし・・・」と、下を向きながら答えた。
「マーカー? 何? それ? 専門用語使わないで下さい」と激しい口調で要求をした。
いろいろと説明があり、最後に、先生方の夏休み(お盆休み)で呼吸器内科の上の者は、今はいないとのこと。
「・・・やっぱり・・・」
  病室を覗くと善幸が、お父さん先生なんて言っていた? と聞いてきた。
「あ、あのな、なんか胸にできた見たいやて、それで咳が出るネンて、
時間かかるけど治療したら浮腫みもすぐに治るって言ってたわ」
と、咄嗟に言葉が口をついて出てきた。
本当のことなどどうして言えようか、この子は、まだ、十九歳になったばかりだ。
そんな、むごいことを言えば、飛び降り自殺でもしかねないだろう。
余命三ヶ月、治療をしても六ヶ月と死の宣告をされたのだ。
本人にどうして、告知など出来ようか? 
すぐ、個室を要求した。
知り合いの医師に電話をかけまくり、事情を説明して調べてもらった。
泣き喚きながら、なりふりかまうことなく怒鳴るように聞いて回った。
どの先生方も、同じような返事だけでどうすれば治るかは誰も教えてくれない。
ただ一人、悪性の腫瘍ほど、抗がん剤は効くと言っていただいたが、
抗がん剤と言う聞きなれない今まで他人事のこの薬品名が、毒薬のように聞こえてきた。
悪名高い抗がん剤シスプラチン。
髪の毛が抜け、嘔吐をもよおし、全身に嫌悪感が走る、悪魔の薬。
何度か、テレビのガン特集で見たことがあった。
それを、我が子に打って、同じような目にあわすことになるとは、耐えられないが、
一度試した方が良いと言う病院の医師の勧めでうけることになった。
  めずらしいガンと言うことで、数々の検査は続いていた。
若い世代に多くその原因も治療法も良く分からないと言う。
真実の程は定かではなかったが、苦痛に帯びた検査は毎日あった。
その中でも特に強烈だったのは、胸から布団針くらいの長い針を入れて、
縦隔にできたがん細胞の一部を取り出す検査だ。
多くの医師たちが、善幸の居る個室に集まり、
見学研修組みも居るだろうと思うくらいの人たちでいっぱいになった。
痛みもさほどなくすぐ済むとのこと、動脈や心臓の近くに針を刺すので、
外科医も立ちあってやるとのこと、なのに誓約書にサインをさせられた。
一人の若い医師がピンセットに何かを挟んで飛び出してきた。
「終わったンですか?」
小走りでその医師は、「はい」と言ったので、
すぐさま、「取れたンですか?」と、問うたら、
「はい」と、鉄製の小皿の上にあるピンセットの先を目で指した。
どす黒い、小さな肉片がついていた。(こいつか!)
「善幸、大丈夫か?」
「ものすごく痛かった、天井見たら顔がいっぱいあって、変な雰囲気で怖かった」
相当の恐怖心が走ったらしい、大勢の医師に囲まれて、たかが胸の病気と思っている本人にとっては、
言葉では言い表せないものが脳の中を駆け巡ったことだろう。
と、想像すると痛ましく可哀想でこれからおとずれるであろう試練に耐えていけるかと不安になる。
試練とは、善幸のことだけではない。むしろ、隣で看病をする父親のことでもある。
父親は、すでにすべての仕事を止めて次男善幸の看病に全力をつくすことを心に近い、
「キセキ」を起こさなければ・・・と考えていた。
そのために、大阪心斎橋のお店も、新しく手に入れた船場のお店も閉めてしまった。
いや、倒産覚悟で看病に当たった。もし、会社が潰れて借金が残れば、わが身の生命保険で支払うつもりで・・・。
  すべての検査が約二週間にわたって行われた。
副作用のことで頭がいっぱいになっていた。恐怖の抗がん治療を始める日が決まった。
九月三日。
「ただ今から抗腫瘍の治療を行います」
病院側には「ガン」と言う言葉は使わないで欲しいと再三、再四、要求していた。
告知をしないと言うことで、不満顔の医師も居た。
どうも、治療をしにくいらしい。
しかし、治療をしても治らないと言ったその医師は、人の気持ちより自分の仕事がやりにくくなるのがいやだったようだ。
顔にありありと浮かんで見えた。
  点滴の針が細い左腕に入っていく、入院当初から感じていたことだが、この病院では看護婦は点滴の針を打たない。
すべて、男性であろうと女性であろうと医師が行う。それは、見るに耐えかねるぐらいにヘタクソだった。
特に、善幸についた担当医は、話にならないぐらいにヘタクソである。
一度入れてはまた抜き、「すいません、もう一度」、やっとの思いで入ったと思えば、液が漏れて腕が風船のように腫れ上がる。
我慢ならず何度か婦長に文句を言ったが、
「ここは、医者を作る病院だから仕方がない」・・・では、善幸はモルモットか?
    左腕に刺さった針から最初の抗がん剤エトポシドが入っていった。
そのとき、善幸が父親に何か言いたそうな顔をして、ジッ、と見つめている。
と、思った瞬間、バタッ、と手すりに頭をぶつけて倒れてしまった。
「どうしたッー善幸ッ! どうしたッー?」
そばに居た看護婦が父親の声と善幸の状態にあわてている。
つかさず父親は叫んだ。
「アレルギーと違うか?」
あわててナースコールボタンを押す看護婦。
しかし、誰も来ない。
すでに善幸は、白目を剥いて、口を開けっぱなしの状態。
色白のピンクがかった身体は、みるみるとむらさき色に変色していくのが見える。
(あー死んで行くー・・・)
やっと、一人の看護婦が入ってきた。
先に来ていた看護婦が喚くように言った。
「先生ッ、呼んで来てッー」
と、もう一人の看護婦があわてて飛び出していった。
  廊下を数人の人が小走りでこちらに向かってくるのが分かる。空気が慌ただしい。
善幸はゆすっても、声をかけても反応はない。
「どうした? どうした?」と、父親は、泣きそうな声で呼びかけている。
しかし、応答なし。(嗚呼)どうしよう?
  一人の女医と看護婦が入ってきた。
善幸の姿を見るなり、
「ステロイドッ・・・はよ、ステロイドッ持ってきてッー・・・」と、女医が大声で言った。
また一人の看護婦が廊下をナースステーションの方へ走っていった。リレー競争のように走り回っている。
「ハイッこれ、先生ッ」
  すぐさまその薬は、善幸の点滴の中に素早く入れられた。
「善幸ッ、善幸ッ」と、父親は必死に子供の名前を呼んでいる。
・・・・・・ すると、しばらくして口から泡を吹き出してきた。
それをふき取りながら、さらに「善幸、善幸」と呼び続けていたそのとき、眼の色が変わりだした。
「あー、お父さん」と呻いた。
・・・・・・生き返った!・・・・・・「慎重に治療をしてください。もうチョットでうちの子は死ぬとこだったんですよッ」と、低い声ながらも怒りを込めて抗議した。
まさか、この薬で、アレルギーになるとは・・・治療は一時中断。 元気な間に、一時帰宅をさせて、我が家で過ごす時間を持とうと努めた。
ちょうど、秋物の服が欲しいと言うので買い物に出かけた。陽射しは、まだ真夏とほぼ変わらない暑い日であった。
ニューヨークの世界貿易センタービルにジェット機が飛び込んだ。そのニュースが連日流れている。
(いろんな形で人は死ぬ)
    善幸と父親は、天王寺駅のすぐ横のファッションビルに出かけた。
途中、善幸は何度も咳を繰り返した。薬は飲んではいても咳が出る。父親は、病気のせいじゃない、ほこりっぽいせいだと言った。
「空気が悪いからな、特に服屋は、目に見えヘンほこりいっぱいやから、
お父さんも咳よう出るわ、ゴホンゴホン」と、うその空咳をしてみせる。
「ここで、待ってて、一人のほうが選びやすいから」と、店の外で待たされた。
  船場の商人である父親が商売上のクセで値切り倒すかも知れないという、子供心の恥ずかしさがあったのだ。
常々、父親のことを尊敬していると言ってはいたが、若者の店で堂々と値切られるのは、さすがに恥ずかしかったのだろう。
「何でも買いヤー、欲しいものあったらみんな買いヤー 、お金いっぱい持ってきたからー」
と、父親は、両手を口に当てて店の外から大きな声で言った。
「ほんま! 予算どれくらい?」
と、周りの目を気にしながら首をこちらに向けて聞いて来た。
「十万円や!」
と、言う父親の声の大きいのと額の多さにビックリした善幸は 、
「服屋するノンと違うから、そんなようさんいらんわ」と、笑っている。
    すこしでも残りすくない人生を楽しませようと、必死で笑顔をつくり演技するのであるが、
店の前を右往左往するから、他の客は入りたくてもはいれない。
口ひげとアゴひげ、度のはいったうす茶色のサングラス、
そして、体重77キロのオッサンが門番のようにうろついていたからである。
「ほこりっぽくてごめんなさい」と、咳き込む善幸を見て店員が頭を下げている。
「いえ、そんな、チョット病気やから・・・」
「アー、そうなんですか、大丈夫ですか」と、カッコイイ店員が言った。
店の外からまた大きな声で父親が、
「何、悩ンでンねン、手に持ってるのン全部買えッ」
「これも買っていい?」と、つかつかと父親のそばへよってきた。
「それなんぼヤ?」
「3900円」と申し訳なさそうだ。
「もっと高いええ服買えヤー」
「これでもここの店では高い方や」
    ズボンとTシャツを袋に入れてもらい店を出た。Tシャツ一着分だけ父親に出してもらい、あとは自分の小遣いで買った。
「もう欲しいモンないンか?」
「うーむ、そやな小さなラジオが欲しい」
「何でヤ?」
「病院で夜寝るとき聞きたいノンあるから」
「よっしゃ。それ買いに行こう」
    二人の親子は、歩いて大型電気店の方へと向かった。
善幸の右手の袋には、新作の秋物服が入っている。
いかにも嬉しそうな顔をしている。
早く歩くと咳がひどくなるのでゆっくりと歩く。
歩調を合わせて、笑いをさそいながら歩く父親。
「お父さんもこんなカッコええ店で買いもンしたいなッ」
「無理や、ウエスト合えヘンから」と、ニコニコしながら答える。
「若もンでも、太ってるヤツおるやろう」
「おるけど、そんなお腹はおれヘンわ」と、父親のお腹を見て笑っている。
「お父さんチョットやせなアカンわ、今ウエスト何センチ?」
「うーむ、まだ94センチヤ」
「アカンやン、チョット太り過ぎやで、相撲取りと違うねンから」
  和気あいあいと楽しいひとときを感じながらも、
心の中でいつまでもこの幸せが続いて欲しいと願いつつ顔の表情は笑顔を忘れることはしなかった。「店員さん、ラジオ売場何処や?」と、また父親の悪い癖が出た。
「はい、こちらでございます」
「あー、おおきに、善幸いっぱいあるわ、どれでも好きなン買いヤ」
「うん」
「店員さん、ようさん買うからまけといてヤ、なッ」
「お父さん、店員さんビビッてるやン」と、恥ずかしそうに小声で言った。
「ええねン、一発かましとかなまけよれヘンから」
「横にいてはるやンか!」
「聞こえた方があと楽や、なッ店員さん」
  善幸は、数ある中から二つ選んでどちらにするか迷っている。
「どうした?」と、そろっと手の中を覗いて見る。
「どっちにしようか? と思って」
「どっちが高いねン?」
「こっち」
「ほなそれや、店員さんナンボにしてくれる? 消費税はまけといてヤ」
と、また、元のオッサンに戻ってしまった。
    短期間で済むと思っている善幸は、ラジオの入った袋と洋服の入った袋を自分で持つと言って、家の方へ歩いている。
愛称で息子に声をかけた。
「善(ヨシ)、何か食べていこうか?」
「えー、家に御飯あるしお母さん肉じゃが作ってくれたのン食べたいから家で食べよう」
  親の心子知らず、本当のことは口が裂けても言えない。
すこしでも美味しいもの、すこしでも良い服。
ささやかなこの世の楽しさを味合わせてやろうと父親は画策するが、元来質素で母親の手料理の好きな善幸。
思い出したように父親は、
「せやな、残したらもったいないし、また、お母さん作ってくれヘンからな」と、自ら受けている仕打ちを話している。
  家に帰るとさっそく買ったばかりの洋服を取り出して、
一人ファッションショウをリビングルームに備え付けられた大型鏡の前でやっている。
  それを座って眺めていた父親が言った。
「よう似合うわ、ほんま何着ても似合うわ、せやけど背高なったァ」
と、我が子の成長ぶりをひしひしと感じながら見つめていた。
  この姿がもう見られなくなるのか? 
ふと、いやなものが横切った。
そんなアホな、そんなことがあってたまるか、と頭を左右にふりながら湧き上がる悪夢を振り払った。
「お父さん、部屋でギター弾きたいから、ドアー閉めるで」
「う、うん」
  もっともっと話続けていたい。
息子の顔を見続けていたい。
そんな思いとは逆の行動をとられてしまうもどかしさ。
歯がゆくも、くやしくもあった。
そんな時は密かに買って置いたガンの本を読みあさった。
ガンが治った。奇跡の生還、ガンに勝った。医者がガンになったとき。漢方でガンに勝つ。免疫力でガンを抑える。ガンに効く玉川温泉。
等々を乱読し続け、なんとか「キセキ」を起こすために重要部分はメモに取り隠し持っていた。
母親と交代の時を選んで電話などをして、相談をしていた。
肩書きに大学教授とか医師とついていればX線写真と診断書を持って尋ねていた。
「先生、どうですか?」
「マーカーの数値が高いですね」
「治るでしょうか?」
「さあ、それはやってみなければ分かりません」
「薬は効くんでしょうか?」
「効く人はよく効きます」
  何時間も待たされて当たり前のことを聞いて、何十万もする保険のきかない薬を買ってきた。
あるものは煎じて飲ませ。あるものは、オブラートに包んで飲ませたが、どれもこれも飲みづらく噴水のように吐き出した。 再治療の日が決まった。アレルギー反応を起こした薬を一部取り替えて行われる。
新たに抗ガン剤による副作用の注意書きを看護婦から受け取り、読みながら子供にどう伝えようか散々悩んだ。
「きついええ薬つかうから効き目があったら、毛が抜けるかも知れヘンで」
「毛、抜けンのン、いややなァ」
  己の心にウソをついて笑って伝えるむづかしさ、告知すれば楽であろう。
しかし、その時に起きるであろう子供のショックとその後の対応を考えれば言えなかった。
  前回のアレルギーショックがあったので慎重を期すために足の甲の血管から点滴の針が打たれる。
見ていても痛々しく、まして、あの下手くそ新米医師が打ったからなおさらである。
例外にもれず二度三度と打ち直し、結局ベテランの医師が打ってやっとの思いで針が入った。
心臓までゆっくりとたどりつくように遠い足の甲から入れていきながら、アレルギー反応が出ないか様子を見ている医師達。
「気持ち悪くないですか?・・・大丈夫ですか?」と、以前よりは慎重である。
善幸は、その都度軽く、「うん」と、うなづき、医師達は部屋を出ていった。
  薬がゆっくりと身体に入っていきほぼ全身に回りだした。
  点滴の瓶も空に近づいてきたとき、「ウエッーウエッー」と、吐き気をもよおし始めた。
続け様に吐き気止めを入れるが、「ウエッーウエッー」と、胃液と食べ物を吐き出す。
途中からは胃液しかでない。
その後は空えづきが続き病院の鉄製の小皿だけでは、間に合わず、自宅から持ってきた洗面器をアゴの下に当てっぱなしにした状態が続いた。
やっと、吐き気止めが効いたのか、目も頬も口も下向きの状態で言った。
「鉛、飲み込んだ見たい、お父さん」
と、がっくり表情に活気が亡くなり、ぐったりと全身の力が抜けた身体になっている。
見るからに辛くしんどそうである。
  半分泣きそうになった顔に力を入れて軽く微笑みを作りながら父親は、
「ガマンやここを乗り越えた者が勝つンやてぇ、なッ、ガマンや辛抱や、善幸」
「うん」と力の入らない、とろっとした目で首を前に傾けた。
  ジッ、としていてはいけない、と医師も看護婦も言うので、ふらつく身体で病院内を歩き回った。
良くなりたい、治りたい一心で、本当によく頑張って歩いている。
父親は、我が子の背にそっと手を当てながら後をついていく。
一回りして談話室まで来たとき、肩で息をしながら窓に両手をついて、身体を支えている。
窓の外には通天閣が見える。
  しばらく眺めていた善幸が、ポツリと言った。
「はやく、元気に成りたい!」
  目頭に涙が溜まって一粒落ちた。
どんなに目頭に力を入れても涙はこぼれ落ちた。
我が子に見せてはならない涙顔、グルッと振り返り咳をする振りをしてハンカチで涙を搾り取った。
「ぼちぼち部屋に帰ろうか疲れたやろう」
  抗ガン剤を打つまであんなに 元気だったのに・・・、本当にこの薬は効くのだろうか?
  ただ、苦しめているのじゃないのかと不安こもごも足取りは重かった。
僅か十数メートルが長く遠く感じられ右、左にふらつく善幸を後ろから見守りながらついて歩く。
途中ナースステーションの前で会釈を交わしている。
すでに、病院内では若いのに可哀想と言うささやきが薄く洩れていた。
その声は耳には聞こえはしないが、肌で感じることが充分できた。 恐れていたことが始まった。
「うわッー何やこれッ、お父さん毛がいっぱい抜けてる!」
ズぼっ、と抜けたその束で、枕元がいっぱいになっている。
恐ろしい現象を見た驚きで父親の身体が身震いした。
あわてながらも必死で弁解する。
「薬が効いてンねン、薬が効いてる証拠や」と、兼ねてから用意していた言葉で精一杯慰めた。
しかし、髪の毛に触れるだけで次から次へと抜け出した。
  残暑が続き、夕陽が海遊館のゴンドラの上からきつく射していた。
「お父さん明日坊主頭にしようっと、こんなけ暑かったらたまらんわ」
「何で、お父さんが坊主にするの? 無理せんでええよ、善幸だけするから」
「いやー、もう、うっとうしいねン、汗かきやから」
「善幸も、こんな中途半端な頭、嫌ヤ」と、手で頭を撫でた。
「よっしゃ、明日地下の散髪屋で一緒にしょう。
一休さんみたいにスパッ、と切ってもらおう。
ひょっとしたら、もっと頭ようなるかも知れヘンで 」
「ニヤッ」と、笑って答えてくれた。
  しかし、一番短い三厘刈りをしてもゴマ粒のような髪の毛が枕カバーにびっしりと付着している。
それが、ちくちくと身体を刺して痛い。
「お父さん、今度家に帰ったら、頭、剃って!」
  ドキッ、と心臓が波打ったが 平静を装うって、
「せやな、一休さんもつるつるのピカピカ頭に毛が生えたンや、順番まちごうとったなァ」と、笑いながら悲劇を味わっていた。
  数日して、歩いていける我が家へ抗ガン剤の副作用でふらつく善幸を病院の車椅子に乗せて、つれて帰ろうとした。
その時、一人の看護婦が、
「病院の車椅子は持ち出し禁止です」と、止められてしまった。
「おんぶして帰れと言うンか?」
「でも、規則ですから ・・・」と、睨み付けている。
「見ィンかったことにしたらええがな」と、すごんでみせた。
その年増の看護婦は、そのまま廊下の奥にある薬剤調合室の方へ消えた。
「融通のきかン、ブスやのう、ヨシ」
「お父さん、ビビらしたらサービス悪なるやン」
「しやけど、目の前に家があるのにタクシー乗れちゅうンか?」
    上町台地の傾斜が残る道を急ぎ足で押し上げる。盲人用の凹凸道路が車椅子をがたがたと揺らした。
我が家のエレベーター前まで来たとき、他の住人が見たら何と言うだろう?
もし、どうかしたんですか? 
と、聞かれたらどう返事をしようか頭の中で弁解を考えながら十三階に上がっていたエレベーターが降りて来るのを待った。
数人の住人が降りてきたが別階の人たちとは、普段から会話はなく、こんにちはと会釈をするのみで父子だけで乗り込めた。
  気にしていた母親も、早い目に船場にある自分の店を閉めて帰ってきた。
兼ねての打ち合わせどうり、笑顔と御馳走の段取りにかかる。
「善幸、顔色いいなァ、今日すき焼きやでェ」
  息子たちの大好物だ。
母さんオリジナル 、名づけて母さんすき焼き、他にも母さんサラダ、母さん肉じゃが、母さんカレーがある。
嫁に来た当時は、卵焼き一つ出来なかったが口の肥えた夫の猛特訓の小言のおかげで、独自性に富んだ母さん食堂の幕開けだ。
普段は、商売柄ストレスがたまる二人は、喧嘩がたえないが漫才のネタのように打ち合わせをして、
ややオーバーアクションながら笑顔を絶やさず会話と食事を楽しませることが出来た。
    母親が食事を勧めている。
「もっと食べ善幸」
「うん、お代わり頂戴、今日の肉、めっちゃうまいわ」
「当たり前や百貨店で一番高い松坂牛やで、天皇陛下と善幸だけや、こんな美味しい肉食べれるのン」
「ほんまにうまいわ、お父さん食べへンのン?」
「う、うん、食べてるよ」
  我が子が、無心に食べてる姿をボーと見つめていた。
「何ジロジロ見てるノン、食べにくいヤンか」
  病院食は、意識的にほとんど食べなかった。100%患者になるのをいやがっていた。
食欲旺盛で母親の手料理を一生懸命に食べて、体力を回復させようとしている。 
目的は何であれ、何ともほほえましく幸せな時間なんだろう。
今までにも何度もあった同じ光景が、これほど貴重な時間だったとは・・・。
「ごちそうさまでした、あーおいしかった」と、お腹をさすっている。
「チョット部屋でギター弾くから」 と、自分の部屋にはいっていった。
  三本あるエレキギターの中から一番のお気に入りを手に持ち弾き始める。
まるで、殴りつけるように猛烈な勢いで弾いている。
いつもの優しい音色ではない、たたきつけるような荒々しさが、家中に響きわたっている。
ピタッ、と音がやんだ。
こっそりとお茶を差し入れて、半ドアーにした隙間から覗くと、
ベッドの上で大の字になって、天上をジーッ、と見つめている。
重苦しい沈黙の空気が張りつめた。
突然パッー、と一気に起きあがって言った。
「お父さん、剃って!」
慌てて自分の椅子に戻っていた父親は、生唾を飲み込んで、
「うむッ」と、頷いた。
  それは、切腹を覚悟したサムライのように凛々しく見えた。
すでに、お風呂の用意は出来ていた。
先にお風呂に入ったのは善幸、父親は呼ばれるのを待っていた。
「お父さん」と、お風呂のなかから声がした。
父親はおもむろに入っていった。
その心境は介錯を受け持つ武士の如く、断腸の思いであった。
善幸の背中に立ち、カミソリを思い切って前頭部のまん中に持っていき、一気にゾリッ、と後ろへ引いた。
脳天に地肌がうっすらと血液と共に浮かんだ。どこまで苦しめば良くなるのか? 
果たして治るのか?
「キセキ」は起きるのか? そんな思いを巡らせながら、前、横、後ろと二枚刃のカミソリを入れていった。
泣いては成らない、ここで明るく振る舞わなければ、何かを言おう、しかし、言葉が浮かばない・・・咄嗟に、
「K1のベルナルド見たいヤなァ、強そうに見えるわ、なかなかよう似合うてるで」
    風呂を出て大型鏡でさかんに全体の頭の形を見ている。
横で見ていた母親は顔をこわばらせながらも笑おうとしているが、目が泣いている。
堪えきれずに自分の部屋にはいってしまった。
なぜか善幸の顔には笑顔がある。まんざらでも無さそうだ。
「パソコンするわ」と言って、友達にメールを打っている。
  もうすぐ退院出来る。
オレも頑張って追いつくからみんなもガンバレ。
苦しいときにがんばれ、受験競争に負けるな、と病人の方から励ましている。
そして、オレは今、K1のベルナルドの頭になったゾー、と打っている。
マイナスをプラスに、逆境を好転さす名人、と学校や友人達の間では言われている。
悪いことの後には必ず良いことが待っている。
と、宛先不明で戻ってきた善幸の年賀状に書いてあるのを父親は、いつか見たことがあった。 我が子を白血病で亡くした医師の本を読んだ。
そこを訊ねた時の事だ。他の病院と同じようにX線と診断書を書いてもらって出かけた。
本来なら四国まで行かなければならないが、大阪に診療所があると言う。
電話で予約を取り、メモした地図をみながら訪ねて行くと、予定より十分早くついた。
時刻は夕方五時を回っていた。なんとそれから、夜十時まで待たされた。
医師の来るのが遅すぎるために(その診療所では、遅れたと言っていた)、やっとのことで順番が回ってきた。
X線写真をかざし診断書を軽くさっと読んで、
「あんたお子さん何人や?」と、いきなり聞いてきた。
変な事を聞くな? と思ったが、「二人です」と、答えた。
すこし、絶句して、おもむろに立ち上がり、後ろを振り向きざまに、
「ここまで来たら全滅や」と、向こうの方へ行ってしまった。
  一瞬理解が出来なかった。それでも十何万円分の薬を山のように買わされた。
自問自答しながら帰った。その漢方薬を家で煎じて飲ませた。土瓶も、水もすべて支持されたものを使った。(買わされた)
これも例外にもれず担当医から途中で中止させられた。
  そのあと、新聞などに良く出ている、アガリスク、メシマコブ、サメの軟骨、と試してみた。
効果の程が現れないときは、先方に聞いてみた。
すると、判で突いたように、どれもこれも同じ答えが帰ってきた。
「本来なら、抗癌治療の前にすべきものです。抗がん剤によって、効果の程は、半減する」
と、なんと近代医学を否定してきた。
厚生省が認可して、全国どこの病院でも採用している抗癌療法を否定する。すごい自信だと思った。
この人たちは、いずれノーベル賞をとるだろう? 
自分が癌になったときには、ご自分の治療法で治してもらいたい。
その時は必ず、ご一報頂きたいと父親は思った。 医師(病院)によって見解が違う? 無駄に月日が過ぎていくように思われた。入院している病院では、治療は中断したままだ。なぜだろう?その間、病院からは経過報告は知らされないまま、退院勧告を受けていた。
余命三ヶ月が近づいてきているにもかかわらず、どこへいけと言うのだろう。
再三、再四、言われていた。
別の病院を紹介する。と、ハラワタが煮えくり返るぐらい親切な言葉? 腹が立っていた。
別室で最も偉い先生(医師)とお話しをすることに成った。
どうして今まで偉い先生は、現れなかったのだろう、と思いながら対面した。
まず、若い先生が話し始めた。
「余命、あと一ヶ月」
  エッ! と目をひん剥いて驚いた。
「当初効いている。と、思われた薬がまったく効いていない。むしろ拡がっている」
  父親は、ショックと腹立ちで興奮しきっている。(ただ苦しめただけかッおまえらッ)
  次に偉い先生が、メガネの奥でギョロつく目で言った。
「あとに、患者さんがつかえてますから、部屋を空けて欲しい」
「どこへ、行けとおっしゃるンですか?」
「Y川キリスト病院(ホスピス)を紹介します」
「エッー! そこは、もう死ぬ、と諦めた人が行くとこじゃないですか?」
「お父さん、人間は、一回は死ぬンヤッ、認めなさいッ!」
「その言葉、自分の子供によう言うかッ?」と、切り替えした。
  部屋を出るときにもう一度一緒にいた若い担当医に訊いた。
「自分のお子さんによう言いますか?」と、静かに聞いて見た。
その先生は目に涙をためて、首を横に振った。
どうしたら、自分の子供が死ぬことを認められようか、
そんな親がいるなら会って見たいと、父親は興奮している。
  何とか救いたい。それが親であろう、命の灯が消えかかっているのを、上から息を吹きかけて消せと言っている。
我が子がガンになったらシスプラチンの治療をして、高熱と嘔吐と嫌悪感に襲われて、挙句の果てには、
「人間は一回は死ぬンや」と、我が子に向かって言えば良い。
それが、多分立派なお父さんなんだろう。
そんなことは絶対に出来ない。
わが身に変えても救いたい。(バカな父親だから)
  その頃も、必ず良い薬が出てくるはずだと、いつも信じて読んでいた新聞にある時、最先端治療と言う見出しで記事が出ていた。
末期の肺がん患者が、今では数ミリになり、ゴルフも出来るまで快復した。
「アーッ、これやッ」と、直感的に想った。
早速電話をして予約を申し込んだ。
すると、翌年まで予約がいっぱいだと言う。
キャンセルが出たら必ず電話をしてくれるようにお願いをして待った。
  二,三日して電話が掛かってきた。
「今週の土曜日に来てください」
  新幹線に飛び乗った。
  父親は診断書とX線写真を入れた袋を大事に持っている。 話は幼少期に戻るが、善幸が生まれたときは、三千七百グラムで大きく丸々と太っていた。
子供のときから病気の少ない丈夫な子で、とにかく、素直でやさしい子と言う印象が強く残っている。
二つ違いの兄のお下がりばかりでも何一つ文句を言ったことがない。
器用でお菓子や料理なども作って、親にご馳走するところがあり、
勉強、パソコン、ギターと教えた事は、人並み以上にマスターしてしまう、とても賢い子で親戚中の評判であった。
中学校に入ってバスケット部に所属し、
それ以外にも野球やサッカー、ボクシングとスポーツ好きで、物まねやお笑いも大好きなスマートな好青年といえるだろう。 新横浜駅に着いた。タクシーに乗って目的地をつげた。
思ったよりも小さな病院だ。ガンやリュウマチ専門病院といった印象を持った。
受付まで上がっていくと人がいっぱいる。新聞に出る前から、関東方面では有名なところだったらしい。
順番は一番最後。その間、多くの患者さん、もしくは付き添いの方々が待合室でうつむき加減に、ジーッ、と座って待っていた。
(助かりたいんだぁ、助けたいんだぁ)全員が暗い表情をしながらも、希望を捨てないと言う、信念のようなものが感じ取られた。
  さほど待たされずに名前を呼ばれた。
なぜか、ドキドキする。
  診察室に入ると、例のように、X線写真が掛けられ、電気のスイッチが入っていた。
父親が入る前から、先生は思案していたらしく、重苦しい空気が漂っていた。
「この度は、誠にありがとうございます。ご無理を言って申し訳ありません」
「いーえ、新聞などのマスコミに出ると、一斉に来ますから、迷惑かけてしまうようになってしまって、逆に、申し訳なくって」
と、二言、三言挨拶をした後、視線をX線写真に向けて訊ねてみた。
「先生、いかがでしょうか?」
「そうだねぇー、かなり進行していますね」
  細い棒のようなもので、
「ここからガンがこう拡がって、ここ、と、ここにも転移している」
「あ、ハー」と、情けない返事しか出来ない。(見方が全然違う)
「今日は、こういう難しい患者さんばっかり、さっきも大阪から、十七歳の娘さんの親御さんが来られたけど、
脳腫瘍のひどいヤツでね、泣きつかれちゃった」
父親は、その言葉を聴いたとたん、
「先生ッ、この子も、もう行くとこがない。
病院からも退院勧告をされて、おまけに免疫治療や、漢方療法や、いろいろとやりましたけど、
どれもこれも信頼性に乏しく、ここが最後の頼みの綱と思うて来ました。何とかお願いします」
「でも、これは難しいなぁ、やりたくないなぁ」
「先生ッ、死んでもかまいません。何もしないで、緩和病棟に入れて、死だけを待つなんて、親として出来ない。
最後の最後まで、諦めずに治療して死んだのならまだしも、何もしないで、たった十九歳の子をどうして見捨てられましょうか、
一生悔いが残る、見捨てたと子供に恨まれるッ。移植でも、血でも、命でも、なんでも提供しますから」
と、泣きながら必死にすがりついた。
「うむー分かりました。そこまでおっしゃるなら、でも危険ですよ」
「はい、分かっております」
「ただ、入院してもらわないと、大阪から通えないでしょう」
「ここは、入院できないんですか」
「うん・・・池袋の病院を紹介するよ、ここのよき理解者でね・・・そこなら預かってもらえると思うよ」
「そうしたら、そこの病院から通うんですか」
「うん、治療のあとの処置をやってもらわなければならないし、車や電車の移動も大変でしょう。
そこだったら救急車で横になってこれるから、紹介状書いて置くから、普通の病院はいやがってねぇ」
「いろいろと、ありがとうございました。宜しくお願いします」
「だって、迫力がすごいんだもの」 父親は、すぐ退院することを決めた。
一日も早く出たかったからである。
何も治療をしないで放っておかれる状態に耐えれなかったからだ。
まして、紹介をするといわれた病院は(諦めろ) とてもじゃないけど入れられない。
一人悩み苦しんだ。
  まだ、東京の池袋の病院も、治療の日程も決まってなかったが、短期でせっかちな父親は、すぐ退院の手続きをとった。
どこか、病院側は、ほっとした雰囲気だった。
なぜなら、重症の患者が退院するのに笑みが見えるからだ。(失望した)
「善幸、退院するで、新横浜にな、すごい先生おるンや、そこで治療するねン、手続きとって来たから」
と、言って強引に納得させようとした。
すると、
「ここの病院では治れへんノン?」
  鋭いところを突いてくる。
右往左往しながら、しどろもどろ答えながら、
「お父さんにまかしとき」と、妻が横から助け舟を出してくれた。
    延びていた手の爪と足の爪を切って旅の準備をさせた。
そっと、その爪を捨てるフリをして、ポケットに隠した。
覚悟の上での東京行きである。
    四ヶ月の入院生活で、部屋に貯まった荷物を整理するのは大変だった。
英語の辞書、理科の大辞典、京大受験の問題集、センター試験の申し込み用紙と胸の痛む物ばかり。
荷物の重さよりも心の方が重たかった。
ふらつく息子善幸を車椅子に乗せて病室を出た。
病院側からの見送りなどは誰もない。
逆に、こちらからナースステーションに挨拶をしにいった。
「お世話になりました」と、善幸も車椅子に座ったまま、ペコッ、と頭を下げた。
ガラスの向こうからは、立ったままの顔見知りの看護婦たちが、キョトンとして会釈を返していた。
病院前のタクシーに乗り、新大阪駅と告げた。
  善幸は、 久しぶりの外の濁った空気と乱暴な運転で揺れる車に少し酔うたようだ。
すぐには、車から降りられない。
必死に吐き気を止めようとしている。
「大丈夫か? 降りれるか?」
声を出さずに「うん、うん」とうなずいている。
ドアーの横に車椅子を置いて、横滑りに乗せようとしたがうまくいかない。
「いっかい、降りる」と言う。
「はよ、乗り、ナマ風あたったらアカン、おい(母親)駅員呼んで来い。誰でもええからッー」
母親は走って、駅員を呼びに行った。
「はい、何か」と、とぼけた面で駅員が言った。
「これ切符ヤ、この子病気ヤ、どっか控え室ないンか?」
「控え室はございません」と、無神経な間抜け顔の駅員が、また言った。
「なんでないねン、政治家がよう控えとるやろが、そこでええから」
「それは、ちょっとできません、この奥に待合室がありますから、そちらでお待ち下さい」
『アホか? こいつわ』
  すこしでも風の当たらない場所を求めて、交渉をしたが、らちがあかなかった。
あごの付け根まで毛布をあて、風邪を引かせないようにした。
「肺炎になったらお仕舞いや」と、夜十時まで待たされた医師から言われていた。
善幸の前に立って風除けまでやり、寒さから守った。
  父親は車椅子を押して、エレベーターでホームに上がり、
新幹線とホームの間に板を渡してもらい東京行きのぞみに乗った。
個室の中は意外と狭く車輪の真上で神経がイライラするほどうるい。
「こんな状態で、二時間以上も乗ってられんわッ、チョット駅長とこ、行ってくる」
  その個室は障害者や病人用で、当初便利でよいと思ったのがとんでもない。
車輪の振動が耳から入って全身に響きわたる。
父親は車両を変えてくれるように車掌にお願いをした。
顔に、うっとうしいなぁ、としわがへの字にゆがんだ。
「他の車両も、たいして変わらないですよ」と、邪魔くさそうだ。
「ええから、変えてくれッ」と、眉間にしわを寄せた。
「じゃ、八号車を一度見てください、空いてますから」
それで、十一号車から八号車へと移ることにしたが、車椅子が通路を通ることが出来ない。
おんぶして連れて行くか? と思いきや自分で歩くと言う。
なんて気丈夫な子だろう、よろけながら十一号車から八号車まで良く歩いてくれた。
「ここあったらええやろう、静かで揺れもすくない。あっち向きに座り、こっち向きは酔うで」
  父親は、四時間に一度の咳止めを二〜三時間に縮めて、咳がでないように神経を使った。
一度出始めたら一時間ぐらい収まらないときもあったからだ。
  母親も、仕事を休ませて連れてきたが、すったもんだがあった。
「仕事が大事かッ、子供が大事かッ?」
「分かってます。しやけど、今、年末でかきいれどきやし、商品も少ないから・・・」
「アホかッ、会社なんか潰れたら、また作ったら仕舞いやけど、善幸は作れんどっー」
父親は、車中ですこしでも楽しませようとしたが、本人にしか分からない苦痛が、善幸の身体を襲っていたのだろうか?
「もう、そろそろ富士山が見えるはずやで、見るか、しやけど、これ反対側やなぁ」
「ええから、静かにして」と、頭を窓側にもたれかけさせて、辛そうである。
「富士山過ぎたら、もうすぐ着くからな、もうちょっとの辛抱や」
駅員がもうすぐ新横浜駅に着くと知らせに来てくれた。
「どうぞ、こちらから、お降りください」と、先導してくれる。
「よっしゃ、はよ行こう、風が冷たいから」と、肺炎が怖かった。
  エレベターを降りて、タクシー乗り場まで行くのに遠く感じる。
『アッ、並んでる!』 
   冷たい風の中を順番を待った。
車椅子からそろっと降りて、タクシーに乗せた。そして行き先を告げた。
すると、「知らない」と、いきなり言われた。
  タクシーに乗って、まだ三日目だそうだ。
降りるわけにもいかず、肺炎を極度に心配していた父親は、我が身の運(つき)の悪さが言葉になって出た。
「道、聞きながら行けヤ、田舎もんと思うてなめとンか? こらァ、この子病気なんやドッー」
「柄が悪くてごめんなさい」と、母親が他人のような顔で言った。
「やかましいワい、道知らんから、タクシー乗っとるのに、運転手が知らんかったら、話にならんがなぁ、鈍くさい餓鬼ヤ」
  あちらで聞き、こちらで聞き、とイライラは最高潮に達した。
「運転手さん、道知らんかったら、タクシー乗るなッ、ボケッー」
と、大声で一喝してやると、善幸が「くすッ」と笑った。
久しぶりに大阪弁まるだしの父親の迫力を見たのと、あまりの柄の悪さが、おかしかったのだろう。
ただ母親は、違う方向を向いていた。
  その病院の上のホテルへチェックインを済まして部屋に入ると、善幸もほっとした様子だ。
東京の大学へ通う長男も到着した。
「やっと、着いたなぁ、何かお腹がすいてきた、お兄ちゃん、この辺何もないから、地下鉄の駅前まで行って、何か買うておいで」
長男が買い物に言っている間、体調のことが心配だった。
「調子どうや、チョット熱計ろうか? はい、体温計」
顔色も良いし、さほど疲れていないようだ、咳も今は出ていない。
和やかな雰囲気で、食事が出来るように、演出をしていった。
「ここどの辺になるの?」と、善幸が力のない声で聞いて来た。
「港北区ってとこや、そうやなぁ東京のベッドタウンかな?」
「ただいまー、いっぱい買うてきたで」と、長男が戻ってきた。
「うん、ご苦労さんあったな、こっちもっといで、なんやこれ、まるで遠足のおやつやがな」
と、笑いを誘いながら楽しく食べる努力をした。
  父親と長男が別室で寝て、善幸と母親が同じ部屋で寝た。
長男と父親は、夜遅くまで人生論や運命について語り合い、
暗に、これからくるかもしれない非常事態にそなえて、覚悟の程を悟らせ、東京の病院での役割についても指図をした。
しかし、二つ違いの弟が、「治る」と、言う希望を最後まで捨てさせてはならないと思った。
翌朝、一番に病院の受付に顔を出した。
すこしでも早く治療をして欲しいと言う気持ちであせっていた。
結局、キャンセル待ちなので一番最後に名前を呼ばれて治療室に入ることになった。
MRI撮影をして、別室に父親たちは先生に呼ばれた。
「撮影中もかなり苦しそうに咳をしていましたが、なんとか頑張ってくれて撮影できました。
ここ、と、ここにガンが拡がっているのが分かりますか?」と、説明されたがよく理解出来ないまま・・・。
「一番ええ薬を使ってください。宜しくお願いします」と、深々と頭を下げた。
寝台車に横たわっている善幸を治療室まで送っていき、
「頑張るンやで、咳は大丈夫か?」と、訊ねた。
かるーく、うなずいてくれた。
そのとき先生が、
「立派なお父さん持って幸せだね、頑張るんだよ」
善幸は、先生に微笑みかけて、うなずいてくれた。
  父親と母親は、その模様をモニターテレビで見ることが出来た。
この世にある最高の抗癌治療薬が、患部めがけてカテーテル方式で噴霧される。
「やっつけてしまえッ潰してしまえッこのガンめッ、善幸の身体をいじめやがって」
モニターテレビに向かって、泣きながら思わず叫んでいた。
母親も祈るかのように両手を合わせて泣いている。
どれぐらい過ぎたろうか看護婦さんが、「終わりました」と呼びに来てくれた。
走って処置室に入りながら、「善幸、大丈夫か?」・・・あッ震えている。
薬による一時的な副作用、熱も高熱になる。座薬によって熱を下げて、落ち着いてから出るようにと指示をされた。
電気毛布にスイッチを入れ寒くないように懸命の看病をした。
世界最高のアメリカ製の抗癌治療薬が入った胸の辺りは、真赤っかだ。
「先生、効果の程は?」
「それは、二週間ほどしてみないと、分からないから、二週間後に、予約を入れておきます。いいですか」
「二週間ですか・・・」
余命あと一ヶ月と言われていた。あと、数日しか残っていない、父親は心配がより一層強まった。
「池袋の病院から来ました」と、二人の男が入ってきた。
善幸を寝台車に乗せて救急車へ移動した。
「ウーン」と、大きくサイレンを鳴らした途端すべての車は左右に寄る。
さらにマイクで「道を開けてください」と大声で叫ぶと道路の真ん中に一本の道が出来た。
そこを東京池袋へと突っ走った。
  数十分後、突然。
「お母さん、何か、飲み物頂戴?」
「今、善幸が喋ったンか?」と、我が耳を疑った父親が、
「何か欲しいのか?」と、聞いてみた。
「うん、何か飲みたい」と、ハリのある声を出して喋った。
「お母さん善幸が、喋った!」
はっきりした声で喋った。このころは、咳が怖くて殆ど喋らなかった。 それに、声も良く出なかった。
それは、すでに縦隔から気管近辺までガンが拡がっていたからと言われていた。
父親だけが家族の中で知っていた。
「お母さん、はよはよ、ポンジュースポンジュース」
と、善幸の好物の愛媛県特産のジュースを口に当ててやると、
「自分で、持って飲む」と言う。
嬉しくなって、微笑みながら、
「出来るか?」と、手に持たせた。
「ゴクッ、ゴクッ」と、実にうまそうに飲んでいる。
「来てよかったなぁー、治るわ、治るわ、絶対に治るわ、なあ、お母さん!」
歓喜の声が車内を駆け巡った。
「うわー、よかったなぁ、善幸、よかったぁ」
嬉し涙でくしゃくしゃの顔を見合わせる感動の瞬間。
「善幸、ここどこか分かるか? 
世田谷ってとこや、芸能人や野球選手がいっぱい住んでるとこやで、チョット見てみィ」
と、父親は、笑顔の善幸に話しかけた。
救急車は快調に走り約一時間で池袋の病院に着いた。実はぶっつけ本番だった。
父親は、担当の先生まで挨拶に行く。
「先生、ご無理をいいまして、申し訳ございません」
「いやー、びっくりしたよ、もうきちゃってるって、言うんだもの」
いやな顔一つせず他の病院の患者を預かってくれる。
「まっ、おかけ下さい。ここは、ガン研から九十人ほど預かってる。
うちの看護婦は、みんなよく心得てますから、ご安心ください」
父親は、大阪での経過などを説明をし、なんとか、我が子を、救いたいがためにやってきたことを、一生懸命に説明をした。
「よく分かりますよ、僕も子供いるから、でも、ひどいことを言うなぁ、C大付属病院は、大きな病院なのに」
「大きいだけでは、ダメです。心がなさずぎる。自分の子供に置き換えたら、簡単に分かることを・・・」と、切々と語った。
「あんまり綺麗じゃないけど、僕も全力を尽くすから・・・がんばろう、お父さん。
・・・でも、お宅の、お子さんのは、大きいですね」と、壁にかけた善幸のX線写真を見て、ポツリと一言。
    部屋は三〇三号室、良い部屋番号だ。
以前は九六四号室(苦、労、死)と読めた。
小さな部屋だがこの病院では、二番目によい部屋だった。
看護婦の手際もよくすべてが素早い、点滴の針も一発で入れる。
痛いの「い」も感じさせない早業(やっぱり、針仕事は女に限る)
すべては病院の指示どうりにすればよかった。
    善幸は最先端治療が効を報したのか、目の輝き顔の色つや共に良くなっている。
こんなに早く効果が出るのか! (もっと早く来れば良かった)
家族全員が久ぶりに明るい気分になり笑顔が表情に出ていた。
「お腹すいたなぁ、何か食べよう」
「善幸も食べるわ」と普通の人と同じ調子で言った。
父親は、前もって買わして置いたおにぎりやスナック菓子を渡した。
「よっしゃ、よっしゃ、食べ、これ食べ」
お弁当係りの長男も同じように、
「これおいしいで、これも食べるか?」
みんなで、いろいろとたくさん食べさせようと声をかけていた(一日も早く元気に成って欲しい)
「そんなようさん食べられヘン、運動不足やのに、肥満児になってしまうやン」
「うわーハッハッハッ」と、全員を笑わせてくれる。
父親は、家族で昔行ったあやめ池遊園地の芝生の上にシートを敷いて、
一家団欒楽しくお弁当を食べている状景を思い出していた。
「お父さん、パソコンとって」と、善幸が言った。
「よっしゃ、はい、ここに、置くわな」と、ベッドに付いている小さなテーブルの上に置いた。
どうも、友達たちにメールを打っているようだ。
東京に来たこと、元気でいること、みんな受験勉強ガンバッテルか? 
退院したら四万十川で、バーベキューをしよう、とそう言うふうなことを打っている。
今、「自然が残る清流四万十川」と言う番組が流れている。
「お父さん、四万十川って行ったことある?」
「いやー、まだないけど、一度行きたいとは思うてんねン、退院したら一緒に行こうか?」と、笑顔で答える。
「せやなぁ、でも、ぼく、勉強遅れてるしな」
「退院してから次のこと、ゆっくり考えたらええねン」
「しやけど、みんなよりだいぶ遅れてるゥ」
「なにも、京大だけが人生と違う、善幸は、料理も得意やし、おいしいもン好きやし、
今、流行のグルメやから、道場六三郎みたいな料理人になっても成功するンと違うかなぁ」
「うむーそれもええなぁ・・・でも、やっぱり京大に行きたいわぁ」
  次の治療までは二週間ある。
その間は、咳止めを飲む程度で、これといって大きな治療はこの病院ではなかった。
家族が交互に病室に入り看病をしていたが、善幸も比較的元気があり(効いているなぁ)と言う感じがしていた。
本人もパソコンをしたり、テレビを見たり、本などもよく読んでいた。
この間に家族の絆がより一層深まっていったようだった。
  長男は、大阪のお好み焼きが食べたいと言ったときなどは、それを、どこかで見つけてきては、持ってきていた。
二つ違いの兄弟だから好みも良く似ていて、父親の分からない部分を良く支えてくれていた。
母親は、なれない土地をこまめに歩き、善幸の欲しがるようなものを見つけては、買ってきていた。

  このころの東京はとても寒かった。
電気ストーブを買ってきて、病室に置いた。病院は以外と寛大だった。
  そして、いろんな相談にも乗ってくれた。その中でも、驚いたのは、先生からの一言だった。
「お父さん、どんな民間治療をしているの?」
「いろいろやってましたけど、大阪で止められましたから今は、何もしてません」
「どうして、可能性があるんだからやったほうがいいよ」
父親は、びっくりした。大阪の病院では、何を聞いても、データーがない、私は知らないと言われ続けていたからである。
もっとも、びっくりしたのは、
「どうして、丸山ワクチン打たないの?」
「エッ! いやー、あのー、あんなの水って言われました」
「ええッー、ひどい事言うなぁ、治ってる人いっぱいいるよォ」
  ショックだった。この先生は、可能性のあるものはやってみなさいと言う。
実際に末期がん患者が「キセキ」的に良くなった人を何人も見てらっしゃる。だから、否定はされない。
(えらいちがいやなぁ)同じ医師でも、こんなに違うのか?
  また、専属の薬剤師さんもよく部屋に来られた。
薬の効き具合や、今の状態をカルテだけではなく、自分の目で確かめて処方を施してくれた。
  先生に、相談してよいやら、こんなこと言ってよいやら、そんな不安や心配事は一切なかった。
父親は今までの病院や医師は何だったのか?
『おまえらだって、いつ、ガンになるか分からないんだから、抗がん剤だけで治せッ! 
漢方薬も飲むなッ、民間療法もするなッ、玉川温泉にも行くなッ』
  そんな思いをしながら、説明を聞いていた。
一進一退だが、少しは効果があったのでは? と思う日々が続いていた。
世間では、年越しの準備や師走の慌ただしさで騒がしかったが、善幸たちにはまったく関係がなかった。 行く年くる年が終わって、除夜の鐘が鳴った。
「お父さん、あけましておめでとう御座います」
と、善幸が丁寧に新年の挨拶をしてくれた。
そして、父親もおめでとうと返礼をした。
「今年はええ年にせなアカンな善幸、病気は気力や心の持ち方や」
すると、澄んだ眼差しで、「うん」と大きくうなずいた。
  仕事始めの日、大阪のお店から母親に電話がかかってきた。
「もう商品が底をついて開店休業状態になっている。どうしましょう?」と、従業員からだった。
「あっそう、来るときから品物が少なかったから・・・チョット待ってぇ、あとでまた電話するから」と、母親は携帯電話を切った。
  どうしても行かなければお客さんに迷惑をかける。母親の商品でお客のついているところもある。
まわりの店も何があったんだろうと不思議がる。
いくら従業員がしっかりしていても商品の製作は母親しか出来なかった。悲鳴に近い訴えだった。
「行かなアカン、これ以上お客さんに迷惑はかけれない、善幸のことは心配だけど、
今は、以前よりマシに見えるし、お願いやから、行かせてぇ」
  廊下で立ち話をしていた父親と母親は部屋に入った。
母親は、善幸の顔を優しくみつめながら、
「なぁ、善幸、お母さんのお店な、たくさん服売れて品切れやネン。
出張に行って服作ってこなお客さんに迷惑かけるから、なッ、三日だけ行ってくるわ、なッ」
「うん、ええよ、ゆっくり行ってきて、お店大事やから、せやけどお母さんのお店、よう売れんなぁ、さすがやな」
と、笑顔で言ってくれた。
  母親は出張に出かけた。そして、国際電話で善幸と話している。
「もしもし、大丈夫、元気?」
「お母さん、心配いらんて、大丈夫や、ええ服いっぱい作ってきてぇ」と、いろいろと話している。
善幸から父親に受話器を渡された。
電話を変わったとたん、受話器の向こうでは搾り出すような泣き声が聞こえて来た。
父親はわざと、大きな声で
「全然心配いらんで、安心して仕事してきて頂戴」
  三日後成田着で母親が帰ってきた。
方向音痴なのに、成田から池袋までスーと来れたらしい。
母親の神通力とでも言うのか信じられないスピードで帰ってきた。
夜十時を回っていた。
「ただ今ー善幸」と、わざと高い声を出して入ってきた。
「あーお母さん」
久しぶりに再会する親子のような軽い驚きと共に声を発していた。
「お帰りぃ、えらい早かったな、よう迷子にならンと帰ってこれたな」と、父親独特のねぎらい言葉だった。
「なんか、作ってぇ」と、善幸が言った。
  善幸は病院食は食べなかった。病院食を食べると治る気がしなかたのだろう。
母親のいない間、東京の味付けの濃い店屋ものばかりで、家庭の味が恋しかったのだろう。
母親は優しく言った。
「サラダとか、目玉焼き作ったろか?」
すると、善幸は、足腰を触りながら、少し考えてから答えた。
「最近やせてきたら、カルシュウムのはいった食べ物がええわ」
自分でもやせてきたのが気になっていたのか?
「はーい、分かりました」と、甘えてくれるのが嬉しいらしく、疲れも見せずに部屋を出て行った。
父親が追いかけるように、
「おーい、マンションから材料持ってきて、ここの炊事場で作れっ」
「いいの、ここで作っても」
「時間も遅いから・・・怒られたら、俺が言うたる」
  深夜の病院で料理作り、良い香りが病院内に充満する。
「出来たよう、ふうーふーして食べなさい」
「うまそうやなぁ、うむーうむーおいしいわー、お母さん」と、満面の笑みを浮かべて食べている。
「あったりまえヤー、わたしはなッ、大阪の道場六三郎ヤッ」
「あっはっはっは、道場六三郎と言うよりも、五三郎ぐらいヤ、ハッハッハー」と、笑わしてくれる善幸。 センター試験が近かづいていた。
自分だけ受けれない苛立ちがあったのだろう。
  しかし、決して口には出さなかったが毎日カレンダーを見る目で分かった。
せめて受験票だけでもと、父親は窓口になっている大学の受付に電話をしてみた。
「あのう、すいませんけど、うちの子、今、病気で東京にいるんですけど、
・・・はい・・・ですから、東京のどこかで受けることできませんか?
・・・あのう、病院で受けることはできないでしょうか?
・・・チョット近所の大学と言われても、今歩くの大変なんですが、
・・・はい、はい・・・とにかく、東京で受けれる受験票を送ってください。
・・・大阪までは、とりにはとても行けない状態なんですが・・・」
と、何度かやりとりがあり受験票をやっとの思いで手に入れた。
  父親は、届いた受験票を子供に見せた。
「お父さん、してくれたン」と、笑顔を見せている。
「おおう、お父さんに不可能と言う文字はない」と言って、笑わせた。
  このころは、まだ、まだ元気だった。一月の終わり頃、トイレに入った善幸がひどく咳き込んでいる。
「ゴホン、ゴホン」
「大丈夫かあー」
「胸痛い! 咳したら胸が痛いー!」
と、脂汗を額にいっぱい浮かべて、右手で胸を押さえながら出てきた。
身体を支えてやりながらベッドに寝かせて、
すぐ先生にそれをつげに走っていった。
「先生、咳したら胸が痛いと言ってます」
「このあいだ、新横浜に行ったでしょう、その時、先方の先生ともお話したんだが、
薬の当たったところは良く効いているんだが、若いから成長が早くて・・・」
「どう言うことですか?・・・、転移ですか?」
「うむー、そうなんだよ」
若いから(ガン)成長が早い!
    次の日、薬剤師さんが来られた。
善幸に、挨拶をして「大丈夫だからね、何でも言ってよ」と、言いながら、目で父親を廊下へ誘った。
「あのさ、そろそろモルヒネを使った方が本人のためには、良いと思うんだけど」
「モルヒネッ!」と聞いて、驚きと不安が一瞬にして全身に広がった。
    床づれをおこしている。
お尻の皮がむけて痛々しかった。
ボルタリンの塗り薬を塗ってやると、とても気持ちよさそうだ。
  この三日後、咳が止まらない状態が続いた。
「息苦しいィ」と、涙を流している。
息をしても酸素が足りないらしく、苦しさを必死でこらえている。
横で、母親も我が子を右腕で抱えて涙を流している。
  そのとき部屋に入った父親は、
「どうしたッ?・・・」
「善幸が、息苦しいと言っている・・・」
泣き声は出さずに、涙だけポトポト落としている母親。
善幸の目からは、泣くことをこらえながらも熱い涙がにじみ出ている。
「どうした?」と、優しくベッドにひざまづいた父親。
  すべての不満を噛み殺すように、腹の奥底から苦渋に満ちた声で、
「はやく、元気に成りたい!・・・」と、再び言った。
  父親は、思わず声と涙が一緒に出そうになったが、それを必死にこらえて言った。
「善幸、心配するなッ、お父さんが、どんなことがあっても治してやる。
ただ、お父さんがアホやから、知識がないから時間がかかってんネン。
ごめんな、ごめんなぁー」と、頭を下げて、息子の左手をぎゅっと握り締めた。
すると善幸は、右手を横に振りながら、苦しい息で、
「そんなことないッ・・・」と、言った。
  この日から酸素吸入が始まった。
父親が低い声で長男に言った。
「お兄ちゃん、よく見ときなさい。必死に、がんばってるやろう」
  長男は、重みのある声で静かに語り始めた。
「弟やけど、尊敬するわ、俺には真似でけへン、オレ、アッタラ、気が狂うて、窓から飛び降りるかも知れん」
  つかつかっと弟のそばへ行き、はっきりした口調で、
「善ッ、偉いぞ、お兄ちゃんは、お前みたいなええ弟持って幸せヤ、がんばれよ、まけるなよォーッ」
  悲しみ以上に励ましあう息子たちの姿に、父親は胸が熱くなった。
  今「キセキ」の灯が消えようとしている。
なにくそ、消して成るものか。
    胸が痛いと訴える日が多くなってきた。
咳や熱もまたぶり返してきた。
  しかし、入院した時に言われた、治療しても余命六ヶ月。
それが、ずーっと気になっていた父親は、その日を超えたとき、「勝った」と叫んだ。
『善幸、よくがんばったなぁ』と、心の中で褒めてやった。
何かしら妙な喜びが沸いてきていた。
この二月十二日が越えられるか毎日どれだけ悩み苦しんだことか。
八月に入院したときは、「エッ! あとたったの六ヶ月!」
と、一日一日と過ぎるのがどれだけ怖かったか。
無情にも時間はどんどん過ぎて行ったが、その死の宣告日を乗り越えることが出来た。
『よう、生きたなぁ善幸!』 
  交替で、ウイークリーマンションに戻った父親は、
苦しさを紛らすために、近所の酒屋で買ったお酒を浴びるように飲んだ。
  そして、泣いた、大声で泣いた。
「善幸が可哀想だ、本当に死ぬのかッ?」
嘆き、ぼやき、わめき散らして泣いて泣き叫んだ。
それでも、酔うことはなかった。また眠れることもなかった。
 
  トイレに行くのが辛くなってきたみたいだ。
息を「ハーハー」しながらとても苦しそうだ。
「先生、身体がえらい浮腫んでますねンけど?」
「ガン細胞が大きくなって、大静脈を圧迫しているんだろう」
  手などはグローブのように腫れているのに善幸は気を使ってか、何も聞いてこない。
それどころか精神力は驚くばかりだ。
「お父さん、パソコンとって」
「パソコンするの? よっしゃ、よっしゃ、ここ置くわな」
  すごーい気力だ、笑顔でパソコンを打っている。
薬のおかげもあろうが、この子の性格もさることながら、見事な気力だ。
勿論、副作用とは言ってあるが・・・。「コンコン」と、ノックする音で「ハイッ」とドアーを開けた。
「癌研からきました」と言った。
「エッ」と、ビックリした父親は、廊下へつれて出て、
「ガンって言ったらだめじゃないかッ」と、たしなめた。
  その女医は、身体を指で押したり、呼吸を聞いてみたり、といろいろやっている。
胸のレントゲンも撮りに来ている。
いつもと違うなぁ、と思いながらみつめていた。
  利尿剤を飲んでからは、身体の浮腫みも見る見る取れてきていた。
元のすっかりやせてしまった身体に戻っている。
それは、昔、ニュースで見た、ガンジーの体に似ていた。 医師とも相談をして、密かに大阪へ連れて帰ろうと行動していた。
「ヘリコプターって何の話?」と、突然、善幸が聞いてきた。
  父親はビックリした。寝ているものと思っていたからだ。
「エッ、いやー、あのう・・・大阪帰る話や」と、狼狽した。
「ヘリコプターって、そんなン、お金いっぱいかかるやンか?」
「お金は、稼いだら仕舞いや」と、見栄を切った。
「もったいない、善幸のために・・・新幹線とか車でええ、寝てたら大丈夫や」と、この場に及んでまでも・・・この子は・・・。
「もう新横浜に、行かんでもええの?」
「う、うん、大阪でも治療できるようになったンヤ、しやから帰ろうと思うてなぁ・・・」
  父親は、作り笑顔で必死に弁解(ウソ)をついた。
「金の心配せんでもええでぇ」と、そこまで言い終わったとき母親に廊下へ連れ出された。
「あんたッ、声大きいネン!」と、一喝される。
  父親はモルヒネで寝ているものと思っていた。
ヘリコプター会社に病室で交渉をしていたのである。
さらに、精神状態もおかしくなっていたのか?
(あッ、そうや、自衛隊のヘリコプター無理かな?)と、途轍もないことを思いついた。
(たしか、学校の理事長、国会議員あったな!)
  すぐに元担任の先生に電話をしていた。なりふり構ってはいられない一刻も早くッ!
「・・・教頭先生も学校として出来る限りのことはするとおっしゃってくださったし・・・」
  どうせ(死ぬ)なら大阪へ連れて帰ろうと半狂乱状態だった。
「キセキ」を信じて頑張っているが、目の前にある子供の姿はあまりにも無残である。
「国家のものですから、いくら国会議員でも動かせるかどうかは・・・
・・・はい、はい、あのう、お父さん、善幸君から、最近メールが来たんですけど、
元気でやってる、もうすぐ退院できるって言うてたから、あーよかったと、安心してたんですが・・・」
「そう言う子ですわ、僕もよくなってるからとは言ってありますけど、それは、あくまで薬のおかで・・・」
と、涙声になってしまう。
「ええー、そうなんですか!」と、先生も泣声に変わっていた。
「あと、二週間もつかどうかと言われてますッー!」 二月十五日の昼食のとき、
「心臓がドキドキする」と、急に言い出した。
心臓が、走ってる状態になったらしい。
急いで心電図を取り付ける。
鼓動が一分間に百六十もある。
    先生に施されて廊下へ出る。
「心臓を強化する薬を打った。
もうそろそろ、モルヒネの強いのを入れてあげたほうが、本人のためには楽だよ。
いよいよのところまで来ている。
キセキは起こるかも知れないが、
本人は苦しまないようにしてあげること、心不全の起こる可能性だってある!」
    入院してはじめて強い口調ではっきりと言われた。
それでも善幸は頑張っている。
息苦しいために腰は曲げた海老状態、寝返り一つ打てない。
お尻の皮は剥けて、さぞかし痛かろうに愚痴ひとつこぼさない。
父親は我が子ながら神々しいものを感じていた。
先生は、連れて帰るのだったら、今しかないとおっしゃる。
母親は、
「もうアカンのン? もう望みないのン?
・・・最後の最後まで諦めたらアカン・・・
このままでもええ、寝たままでもええ、動いていてくれたらええ、
あと五年、十年だけでも・・・ウチは諦めヘン」
と、言うなり大粒の涙が眼元いっぱいにあふれ出てきている。
  なんと強い女だろう、この気丈夫さはどこから来るのか、善幸とそっくりではないか・・・。
「ここの先生やさしいし、思いやりもあるからここがええ、死ぬときは何処で死んでも一緒ヤッ」
と、自ら言い聞かせるように言った。
「まだまだいける。まだまだいける」と、逆に父親を励ました。
「よっしゃ、わかった。ここに居とこ、最後の最後までがんばろう」 もう、声もあまり出せない、食欲もあまりない、手を上げて合図をする。
それを見逃すことのないように、全神経を集中させて見つめる。
今では、ベッドの上で大便も小便もしなければならない。
「お母さんごめんな、臭いやろう、ごめんな臭いやろう」
  父親は、唇を噛み締めて、まだ冷たい風が入る窓をそろっと開ける。
母親は、慈悲に満ちた眼差しで優しく微笑みながら、
「一つも臭くないよ、善幸が赤ちゃんのとき思い出すわ」
と、何日ぶりか溜まっていた便を浣腸で出させた。
    自分のお尻や腿をさわっている。
痩せてきたのが気になるらしい。
ここ数日殆ど食べれないでいる。
ときどき、思い出したようにさっと手を上げる。
「どうした?」と、訊ねると、「牛乳を飲む」と言う。
出ない力を振り絞りながらストローで生きようと必死で飲む。
    テーブルを叩いて「息苦しい」と苛立っている。
「先生、もし、ご自分のお子さんだったらどうなさいますか?」
「ぼくだって、どうして良いか、わかんないよ」と、目を真っ赤にして言われた。
  父親は正直な方だと思ったがなすすべがない。
  
  三月十一日先生に呼ばれる。
レントゲン写真をみながら、
「右の肺はペシャンコ、左の肺も半分しか活動していない。
・・・若いし体力があるから持っている。
年輩の人だったらとても持たない、お宅のお子さんすごい生命力だよ」
  父親は、質問も出来ず、恐怖の言葉が来るのかと怯えながらうなずくばかり。
先生は続けて言った。
「僕もびっくりしてる。緩和治療をして家族の絆を持ってもらうためにここまで頑張ってきた。
家族全員がこちらへ来て看病をする姿には感動したよ。
お父さんは人の出来ないことをしている。病院中の評判になっているよ。
他の患者なんか見舞いにも来ない、みんな見捨てられてるんだよ、可哀想に」
  父親はいよいよのときがきていると察知はしていた。が、怖くて・・・。
涙を浮かべながら先生が言った。
「最後の注射は僕がしてあげるよ」
「・・・どうぞよろしくお願いいたします!」と、死の切符を切ってしまった。
  相談室から戻った父親の泣き顔を見た母親が、
「どうした? どうしたの? もうアカンのう?」と、動揺した。
長男は、あまりのショックに酸欠状態となって失神してしまった。 父親は、西新井の身代わり地蔵のお守りを善幸に持たせて一心にお祈りをした。
清め塩を善幸の身体に撒いて、死神を追い払い、
(何卒この私の命とこの身を捧げます。よってこの子を助けたまえ)と、心で唱えた。
  すると! 
善幸も子供のときに教えたマントラ(真言)を一生懸命に口の中で唱えている。
「オンアミリタテイゼンカラウン、オンアミリタテイゼイカラウン」 夜八時、先生が最後の薬を持って部屋に入ってこられた。
足の甲に刺された点滴の中へ、その薬が注入された。
善幸は、ゆっくりと深い眠りについていった。
  その時、突然、
「もう寝るわ、おやすみ。善幸、大丈夫やから」と、言った。
お互い顔を見合わせて驚いた。 
    善幸が喋った! それもはっきりした声で!
「おやすみ、ええ夢見てなぁ・・・ゆっくりおやすみ」
と、父親が言うと、
軽く「うん、うん」とうなずいて笑顔を浮かべた。
    これが最後の会話となり善幸最後の言葉となった。
翌朝、呼吸がゆっくりとなり、
午後十二時十五分大きく最後の一息を吐いて二度と吸うことはなかった。
「お父さん、善幸、息してないッ」と、長男が叫んだ。
「心電図が止まってるッ」と、看護婦がノックもなく飛び込んできた。
「よしッー、よしーッ、よしゆきッー」
「あッーぐゥー嗚呼―淋しいなぁ淋しいなぁ」と、母親が泣き崩れた。
「善幸、もう、苦しまんでもええでぇ、長い事ようがんばったなぁ、偉かったよう、立派あったよう」
と、父親は我が子を褒め称えた。
「お前は俺の誇りヤ、ええ弟持って俺は幸せヤッー」と、長男。
「うちの家に生まれてくれてありがとう、十九年間楽しかったよう、嬉しかったよう、面白かったよう、よう生きたなぁ偉かったぞッー、嗚呼―」
と、その場に全員が泣き伏せた。 般若心経を一心に唱えていた。
すると、壁の向こうから十八年前に亡くなった父親が笑顔で現れて“
「心配するな!」
と、善幸の手をとり天空へと消えていった。
(嗚呼、親父!)
何故か善幸は、昔、高野山の宿坊に行った時の年齢で、
その時と同じアビレックスの皮ジャンと帽子をかぶっていた。
(嗚呼、善幸!)
“バイバイ”と笑顔で善幸も手を振っている。
  長男と母親が大阪へ帰る用意が出来たと戻ってきた。
「今な、お爺ちゃんが来て、善幸連れて行ったでぇ」
  その時、善幸の顔を見ていた長男が、
「善幸笑ってるゥ、お父さん善幸笑ってるゥ」と、言う。
  この世の苦痛から開放されたのか、本当にすがすがしい顔で笑っている。
  余命一ヶ月と言われて東京に来てから実に三ヶ月も生きてくれた。
院長先生はじめ全看護婦、薬剤師の皆さんが合掌をして見送ってくださった。
「ありがとうございました、長いこと本当にお世話になりました」
  深々と頭を下げて善幸と共に池袋の病院を後にした。
入院して、丁度七ヶ月。善幸の闘病生活は終わり父親たちの看病生活も終わった。 東名高速から名神高速に入り大阪阪神高速へと寝台車は走った。
「善幸、もうすぐ大阪やで、元気な姿で帰ってこれンでごめんな、ごめんな」
と、父親は、横で眠る息子に語りかける。
道頓堀ランプを過ぎると通天閣の灯が見える。
もうすぐ我が家だ。
「善幸、通天閣ヤ、もうすぐ家やで、帰りたかったやろう」
  八時間かけて深夜二時に無言の帰宅。
従兄弟たちのすすり泣く声があちらこちらに聞こえる。
「ええ子ほど、はよ死ぬ」
と、善幸の祖母が、可愛い孫の死を目いっぱいに慰めの言葉をかけてくれた。
部屋の主の死をいかにも悲しんでるように、電燈も着いたり消えたりと神秘的な不思議な現象が起きている。
看護婦をしている父親の妹が、善幸の顔を繁々と見つめながら、
「ご苦労さん、ようがんばったね、優しい顔してるわ、健やかなすがすがしい顔してるわ、これは、感謝してる顔や」と、言った。
  たった十九歳で死んで(感謝するやろうか?)と思ったが、 
妹は続けた「ウチも看護婦の端くれや」と前置きして、人間の死に方にはいろいろある。
苦しんで死んだ人の顔、自殺で死んだ人の顔、感謝して死んだ人の顔、それぞれ顔が違うそうだ。
「善幸は、本当に感謝してる顔や、こんな顔作ってもでけヘン。
なんぼ医学が発達しててもこんな顔は作られヘン。
こんなに笑顔で、安らかで赤みが差して、温もりもあり、弾力もある。
今にも起きてきそうなこんな顔、始めて見た」
と、経験から出た言葉だが、たとえ、なぐさめでも嬉しかった。
  同世代の従兄弟達が善幸の横に座り、去年の夏にお婆ちゃんの家で一緒に楽しく過ごした時は元気だったのに、
と、命のはかなさを嘆くかのように涙している。
 
  翌日は仏滅でお別れ会はあさってになった。
二日間儲けたと母親は一緒に添い寝をしている。
十九年間の我が子の思い出が走馬灯のように巡ってきていることだろう。 当日、二人の女の子が崩れんばかりに抱き合って泣いている。
「誰や? いったい?」と、父親が言ったところ、
「あっ、千晴ちゃん!」と、母親が言った。
「エッ、千晴ちゃん! 誰?」
「善幸の彼女」・・・「彼女ッ!」と、びっくりした父親。
  二人はより沿いながら、なよなよと泣き崩れている。
そのそばへ母親は駆け寄っていった。
そして一緒に「嗚呼」と号泣している。
彼女が居たなんて全く知らなかった父親。
R大学に通う目もとのパッチリした大人っぽい美人だ。
もう一人は、ニューヨークに留学している真由ちゃん、弁護士の娘さんで善幸の小学校の同級生だそうだ。
二人を引き合わせた張本人だという。
父親は、狐に包まれたような気分だったが何故か嬉しくなってきた。
あの善幸に彼女が居たとは・・・。
  母親が、善幸の顔を見せている。
「優しい顔ですねぇ」・・・「安らかな顔してるゥ」・・・「善幸君どうして死んだの」・・・「どうして連絡してくれなかったの・・・」
と、大粒の涙を流しながら二人は見つめている。
入院していることは知っていたが、心配をかけまいと一度も連絡をくれなかったそうだ。
二人とも善幸君らしいと言っていた。
  寄せ書きに、
「京大に入ったら、オートバイの免許を取って、後ろに載せて、ドライブするって約束は、どうなったの」
と、達筆な字で書かれていた。
また、いつも図書館で一緒に千晴ちゃんと勉強をしていたと聞いた。
学校同士でも美男美女でウワサの的だったとか。
そんなことがあったとは全く知らなかった父親。
  福園君、山中君、飛田君の連名で花が届いている。
「これはどちらさんから?」と、聞いても誰も知らない。
後で分かったことだが、善幸が組んでいたバンドのメンバーで同級生と言う。
「エッー、バンド!」
  山中君から渡されたビデオには高校二年生の時に開いたライブコンサートの模様が写っている。
それは、まるでビートルズのようでもあり、ローリングストーンズのようでもあった。
善幸はリードギターとボーカルで、歌って踊っている。
近郊の学生達が集まって開催していたらしい。
父親はビックリした。
小学生の時から塾に通い勉強ばかりして、その結果死んでしまったように思っていたからだ。
ある時、元担任の先生から、お父さん善幸君は、多趣味、多芸、多才で、新聞を発行したりバンドを作ったり、
校門の前で女の子が待っていたり、と忙しい子でしたよ。
決して勉強だけのひ弱な子ではなかったと教えていただいた。
父親は、ますます嬉しくなってきた。
  小学校、中、高校を通じての同級生、予備校、そして、転校するまで四年間在学していた小学校当時の同級生たち、
総勢六〇〇人を越す友達が善幸最後のお別れに参列してくれた。
中には我が子の同級生が亡くなった。と、父兄までが来てくれている。
自衛隊のヘリコプターを頼んだ学校関係者はもちろん、
予備校、各小、中、高校の諸先生、生徒たちが次々と献花をして、
明るくて人気者だった善幸との最後の別れを惜しんでいる。 
  会場は悲しみと泣き声でお礼の言葉を述べる父親の声もかすれていた。
祭壇の上の方で善幸の写真だけが笑っている。
「人生は友達と想い出ヤ」
  これは、善幸の口癖である。
友達思いの善幸らしい言葉だ。
その通りの人生を歩み、短くとも中身の濃い充実した人生。
善幸の口癖のとおり、人生は友達と想い出でだろう。
この世での自らの役割を終えて、
多くの友達と多くの想い出を胸一杯に持って、色の世界から空の世界へと旅立って行きました。

「御出棺」 ・・・・・・嗚咽と、すすり泣きの大合唱と共にクラクションが大きく鳴り響いた。
・・・・・・嗚呼・・・青春の花一厘・・・ここに散った。

 お読みいただきありがとうございました。
すべて実話に基づいて書かれたものでございます。
他の小説もございます。お暇なときに、またお読みくだされば幸いに存じます。
ありがとうございました。

 

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